肺癌の克服 💥
46歳の働き盛りでしたが、風邪のようなカラ咳が続くので医者へ行ったところ、左の肺が動いていないと大騒ぎになり即入院するという羽目に陥りました。。
診断の結果、自然気胸を起こして左肺がパンク状態で空気が胸腔内へ漏れ出して肺が押し潰されてしまっている結果左肺が稼動していないとのこと。
直ぐに手術で、肋骨の間へポンチのようなものを打ち込んで穴を開け、パイプを通して左肺から漏れ出している空気を抜き出すことで肺を膨らませると言う処置をしました。
肺が膨らんだところをレントゲンを撮った所で異常な影が見つかり、今までの健康診断では肋骨の陰に隠れていた部分が気胸を起こしたことで位置が変わりレントゲン撮影に写り出たということらしい。
私も見せてもらいましたが1cmぐらいの丸い陰が写っており、これが何であるかが判らずに検査が続きました。
2週間ほども血液やタン、造影剤を注入しての撮影などの結果、胸部外科専門の病院へ転院させられましたが、ここでも又初めからの検査のやり直しで、各種の検査を行っても結果が判明せず、いらいらとした日が続きました。
癌の恐れがあるので、検査に努めているが、原因が特定できないということの様子。
肺の内視鏡検査や試験片の採取など、大変な検査も行いました。
水を一滴吸い込んだだけでもむせて呼吸ができないほどの敏感な気管支へカメラの付いたファイバースコープを突っ込むもので、検査室で行う胃カメラなどとはまるでレベルが違い手術室で行うと言う大変な検査です。
一ヶ月以上も入院してのこのような検査が続き、自然気胸の治療はなおざりとなり、脇腹に穴を開けて排気弁を取り付けたままの入院生活が続きます。
自然気胸の治療は漏れ出た空気を吸い出した上で、絶対安静で寝ていれば自然に癒着して穴が塞がるというのが通常の治療法らしいのですが、毎日あちらこちらの検査施設へ連れ回される入院では安静もありえず、空気は漏れるままをワンウエイバルブの付いた排気装置をぶら下げて処理しながらの生活となります。
40日近くもこんな風で、とうとう医者と喧嘩になってしまいました。担当は内科の先生でしたが、「二つの病院をたらい回しにされた上同じような検査を繰り返して、何も判らないでは堪らん。血液やタンの検査でがん細胞が見つかる段階なら、体中へ転移することになっている、そう言う状態になるまで続けるのかね?
内科で診断が付かないのなら外科へ回してくれ!切って調べれば判るだろ!!」。
案外、内科医はこれを喜んだのかの知れません。即、外科へ回され「どうしました?」から始まったのが梶田先生という若い外科医との出会いでした。
結局、自然気胸を手術して破れている穴を塞ぐというオペを兼ね、異常部分の検査摘出の為の手術をすることにしてもらいました。
医者も患者も出来るだけ手術をしないで治療したいと言う流れの中で私のように自ら手術を希望する患者はまず居ないので珍しくもあり、外科医にとってはやり易い患者でもあったと思われます。
直ぐにスケジュールを決めオペが行われました。3回ほど麻酔ガスを吸い込むと一切の感覚がなくなります。
胸を開けると呼吸が停止するので(肺が膨らまずに外から胸腔内へ空気が出入りするだけ)、人工呼吸器を取り付けての手術ですから大変です。
結局3時間ほどの手術で肺の破れた部分を縫合し、レントゲンに映った異常映像の部分を切除したようです。
肋骨を切り開いての手術なので術後1~2日は痛みが酷くて参りました。呼吸をすると言うことが肺だけが動くと言うことではなく、胸が膨らんだりしぼんだりすることと横隔膜の上下運動で肺が受動的に拡縮するのだということですから、切られた骨が接合するまでは息を吸い込む度に激痛が走ります。
しかし、痛みにも慣れてくるのを知りました(^^♪。
カテーテルというパイプを尿道へ通している間は尿は膀胱へ溜まることなく排出されますが、胸に通されている排液パイプ以外は程なく外されました。
これで、寝ていては小便が出なくなり、無理に起き上がっても出ずにベッドから降りて立ち上がったら出るようになった覚えがあります。
激痛の中、立ち上がって小便をする患者は見た事が無いと言われました。
検査中に仲良しになった内科病棟の入院患者達を胸から出ているパイプと繋がった排液タンクをぶら下げて訪れたら皆さん驚きましたねぇ(^^♪。
肺癌の手術が決定して、いよいよ駄目だったかとみんなで話をしていたところだと言う。
手術したばかりで絶対安静の患者がふらふら歩いてきたと言うので大騒ぎに(^^♪。
見舞いの人が来ると抜け出して近くの喫茶店へ行ったりして、看護婦からはよく怒られました。
ほぼ一週間で半抜糸という期間があり、胸から出ていたドレンパイプも抜かれたので行動が自由に出来るようになると、未だグルグルに包帯が巻かれ手術着のままの状態でしたが、長い間風呂にも入れず下半身が気持ち悪いので、ある早朝抜け出して帰宅し、上半身だけを濡らさない様にビニールで保護して下半身だけ入浴しました。左腕が動かないし、当時5速のスポーツタイプのGTカーに乗っていましたので右腕一本で運転するのは大変でした(^^♪。
未だ抜糸も済んでいない絶対安静の患者がベッドに居ないどころか、病院にも居ないという途轍もない出鱈目な患者として最悪の評価だったようです。勿論動けば体は痛いのですが、それでも車を運転して家まで入浴に帰宅するなどとは誰にも想定が出来ないことらしい(^^♪。
妻も心配するやら喜ぶのやら複雑な気持ちのようです。肋骨が一本切られており胸を切り開いて何十針も縫ったというのに、、、(^^♪。
実はこのとき夫婦の愛の交換も行って、すっきりとした気持ちで帰院しましたら、大騒ぎになっていました(^^♪。当然でしょうね~看護婦さんごめんなさい。
気胸の穴も塞がり、呼吸に伴う痛みにも慣れてきたところで、手術した医者から呼び出され癌の宣告がありました。
「大学病院へ検体を送ったら、肺腺腫の初期で悪性のものだという結果を知らせてきた」との話、看護婦は当初付き添っていた妻を呼びに来たのですが、医師は本人に告げるというので看護婦が驚いています、当時は癌の告知は本人にはしないのが当然の時代でしたから。
梶田医師:「悪いと思われる部分は一応摘出してあるけど、この後、放射線治療か化学療法かで予後の治療を行う必要がある、どちらを選びますか?」
私:「患者に聴いてどうする、どういう治療が良いのか医者が決めることだ」
梶田医師:「手術をして痛い思いをしたばかりの人には言い難いことですが悪性腫瘍と判った以上、再手術をして移転のそれのあるリンパ節とか周りの部位を全部切り取ってしまうのが一番良い方法だ、これをすれば5年以上再発しない確率が60%になるでしょう。再手術が嫌なら放射線とか化学療法も出来ます」と言う。
即、再手術を要請しました。
11月の1日に一回目の手術を行い、19日に二回目の手術をするという厳しいことですが自ら選んで行ったと言う状況です。
せっかく塞がった手術痕を更に大きく切り広げ肋骨も3本切り開いて手術をするという大掛かりなもので左胸の乳首の下から左後ろの肩甲骨の背中側までおよそ40cmぐらいの大きな傷跡が残っています。
短時間の間の2回目ということで麻酔が効かずに、オペの途中で目が覚めるというような経験もありましたが、2度目ということで痛みにも慣れてきており、この回復過程でもよく動き回りました(^^♪。
手術の翌夜、集中治療室に居る時、同じ日に手術をした別の患者も同じ部屋におり、気管支に痰が詰まった様子で呼吸困難で苦しんでいる様子に気がつき、ナースコールのボタンを押しても誰も来ず、動いてみてやれという気持ちもあり、体中に繋がっているパイプ類が集めてあるドレンタンクごとぶら下げて隣にある看護婦室へ行きました。痛み止めのモルヒネが効いており余り痛みは酷くなかった覚えがあります。
びっくりしたのは看護婦さんの方でしたが、隣の患者のことはさておき、私が歩いてきたことが驚異だったようです(^^♪。
それ以後も、大手術をして絶対安静の患者が殆どベッドに寝ていないと言う、でたらめな人間として驚かれたりもしましたが、2度目でもあるし元気な人だという別の見方もされており、自分は強いんだと調子づいていたのかもしれません(^^♪。
梶田医師の診療は独特であり、喉、胸などのドレンパイプも直ぐに(4~5日程度で)抜き去ってしまい、看護婦と対立するような場面もみましたが、胸に水が溜まりごぼごぼと音がするような日もありました。
しかし、何時しか吸収されており、自力で治癒していく方法を助長する診療方針だったようです。
抜糸前から歩き回って看護婦を心配させたりしたことも医師には告げられていたはずですが、梶田医師は笑っていた様子。
別の医師が手術をした相部屋の一人が体中にドレンパイプを取り付けて一ケ月もの長期間ベッドに縛り付けられているのとは対照的な方法でした。
2人部屋でしたが相棒が辛気臭くて参りましたので、直ぐに個室へ移動することにしました。
アフラックのがん保険にも入りたててでしたので、大船に乗った気持ちで、冷蔵庫・TV・応接セット付きの特別室を貸切で利用し、若い看護婦さん達の休憩場にもなっていましたし(^^♪、会社関係の見舞い客も多く、結構楽しいような陽気な入院生活を送りました。
少しよくなると退屈しますので、本を読んだり、外出したりだけでなく、ゴルフクラブを屋上で素振りするというような運動も行っていましたので、いよいよ退院近くになってリハビリといわれて笑ってしまいました。
左側の肩甲骨の周りを切り開いており、左の腕が動かなくなっているはずですと言うけれど、毎日ゴルフクラブを振り回している患者にリハビリはありません。
一応リハビリには行きましたが何でも出来るので呆れ返られてしまい、「あんたみたいな人、もう知らんわ(’-’*) 」と、結局行っただけで終わりました。
こうした不良患者としての行為は梶田医師には告げられていたと思いますが、彼からは一度も注意をされたことが無く、回診の度に看護婦を困らせているらしいね、と冷やかされた程度で、元気で回復が早いことを喜んでいるようでした。
退院に際しては梶田医師は30日程度の自宅療養の診断書を出そうといわれましたが断りました。明日から出勤するからと。
殆ど毎日のように部下が状況報告には来てくれておりましたが、100日も会社を休んでおりましたから心配です。
看護婦一同からは「貴方のような患者は見た事がない、癌だと宣告されて自殺でもしないかと心配しているのに勝手に遊び歩いて、、デタラメだ!!」と、同時にすごい男だとという驚嘆の目でも見られ、花束を貰って退院しました。
以後は1週間に一度から2週間に一度、月に一度、年に二度と通院の度合いが減ってゆき、完治宣言はありませんでしたがそのうちに通院を止めてしまいました。
この梶田医師とはその後20年も経ってから、別の大きな病院の副院長として赴任している先へ訪ねて再会をしました。先方も覚えており元気なのを喜んでくれました。
現在は院長に出世していると聞いており、再度訪ねてみたいと思っております。
直ぐに社会復帰し、喫煙も再開し、ゴルフも直ぐに始めて、以後20年以上も経過した今日でも自慢にはなりませんがタバコを吸っています、やめられないのではなくやめようとしていないだけだと、嘯いており、妻も強く止めようとはしていないようです(^^♪。
以後医者に対する考え方も変わり、任せておくものではない、自分で決めるべきものもある、という考えが生まれました。
悪いところがあれば切って取り去れば良い、よく判らない時は切開して診断することも必要だと。医者も患者も手術を戸惑うことが多い中で、薬漬け治療が起こり、ひいては手遅れになり勝ちであると思います。
このあと10年ほど間をおいて脊柱管狭窄という症状がでた時にもこの肺癌克服の経験が大きく役立ち、当市の病院では手術を出来るだけしない方針で4年ほども薬での治療が続きましたので、一時しのぎにしかならない薬物治療に見切りをつけ、県外のかなり遠方の病院でしたが、口コミで知った整形外科が得意だという病院を訪ねました。
外来の初診で「手術をしてくれる医者を探してここへやってきました」と告げて驚かせました。
たまたま当日の外来診察をしていたのが藤井という整形外科部長が担当していたのも運がよかったかもしれません。「手術するかどうかは医師が決める」というから、愛知では手術をしないからここまで手術をしてもらいに来た。私が決めたことだと反論しました(^^♪。
この切っ掛けは退職してからのハワイ旅行で起きた腰痛(痺れ)です。
それまでも薬で痛みを押さえ、神経の通りをよくするという薬を4年近くも飲んでいましたので、長時間立ち続けると痺れが出るのでゴルフ等は止めていました。
ハワイで歩いている最中に足に痺れがきて腰を下ろさざるを得ないことが2~30分おきに起こる。一旦腰を下ろすとすっと消えてしまう、これが脊柱管狭窄症の特徴です。
両足の靴の下に10cmもあるスポンジを踏んでいる感じで、まっすぐに立っていられません。
そのうち両足全体の神経が痺れたように無感覚になる。
経年変化やスポーツなどのし過ぎで軟骨が磨り減るのでが原因で、脊椎がずれることで、脊柱の中を通っている神経を圧迫することが症状のおきる元です。
骨を削って神経の通る穴を大きくするしか手がありません。もしくは磨り減った軟骨を人工的に埋めなおして腰椎の座りを元へ戻すかですが、後者の方法は未だ開発されていないようです。
当市にある大病院では忌避していた脊柱の手術を他県にある中規模の病院で行うことになりましたが、医者の学んだ大学の教え方のようです。愛知県では名大、名市大が医学の中心となっており、手術は最後の手段とする風潮があります。
訪ねていった他県の病院は伊勢市にある慶応大学伊勢分院でしたが、同じ診断機器であるMRIを使いながら、こちらでは簡単に手術を決定する。
直ぐに入院して案外簡単に手術が出来ました。結構自宅から距離があり、道路通行料だけでも往復で8,200円ほども掛かり大変でした。
ここでも手術後に歩いてみて様子を計ったことがありますが、絶対安静が要件だと言うことで大目玉を食いましたが、体を動かすことで不正な癒着を防ぎ予後が良くなるという実践を行いました(^^♪。
いずれにしても自分の気持ちが負けてマイナス思考になるという欠点だけは持ち合わせていないことがこうした行動になって出ていると考えられ、難病の筈の脊柱管狭窄も一ヶ月程度で完治してしまい、現在元気に暮らしています。
完