天竺論  🏳‍🌈

「西遊記」の画像検索結果

天竺木綿と言う言葉を知っている人は沢山いると思います。インドで生産する木綿布地のこと言います。また唐・天竺と言う言葉は日本からはるか遠くの(当時の中国やインド)のことを言うことばとしても使われています。これらの言葉に含まれている天竺とはインドのことをさすと言われていますが、果たして天竺という中国人が当てた国名がインドのことを指すのかについて疑問を感じていました。印度という国名も英国が勝手につけた言葉であり、歴史上で、この国の人々が自分の国をインドと言う発音で呼んだことは無いのです。ヒンダス川流域(=インダス川)に起きたの国とフランス人が名付け、フランス語発音ではHが消えてしまうのでインド(ヒンダス川もインダス川と呼ばれている)と発音することになり、それを英国人がローマ字で書きとめたのがインドだった訳です。ちなみに現在のインドはBHARATとローマ字で表してバーラットにちかい呼び名が正式の国の名前です。このインドという言葉は更に発展し、東インド諸島(インドネシア)、西インド諸島(カリブ海諸国)、アメリカ大陸の原住民をインディアン(インド人)と何処までインドという架空の名前を広げてゆくのか?と怒りより滑稽を感じます。
このインドを天竺と称し、唐の僧玄奘が仏教の経典を取りに行く旅行記を元に書かれた物語が西遊記であります。その旅先が天竺であったことになっており、仏教がインドで生まれたことから天竺=インドが当たり前の発想になっています。が、果たしてインドのことを天竺と言う漢字で表現したのかについて、大いなる疑問があります。日本では外国語発音をカタカナで表記しますが、中国では全て漢字で当て字をするので、こうした外来語には本来漢字が持つ表意語としての働きは無く、発音だけを表しているはずです。例えばアメリカという国名は中国では亜美利加(日本では亜米利加)と音読みで表示され略して美国=メイコク(日本では米国=ベイコク)と文字の持つ意味ではなく発音だけを利用しています。少なくても唐の時代に天竺という漢字がどのように発音されたかについては良く存じていませんが少なくとも唐の時代には音読みでテンジクに近い発音だったはずです。
テンジクと発音される地域が何処の事であったのかについて不思議を感じていたところ、アフガニスタン戦争で中央アジアの国々が良く新聞に名前が出るようになり、タジキスタン=タジック人の国(大食国かも)、アフガニスタンの民族のうちにもタジック人が沢山居るというようなことから、天竺と言う文字の唐の時代における発音がタジックのことではないかと考え、仏教伝来のルートなどにも関心を持つようになりました。(唐代の中国歴史書では西方のイスラム国の一つを大食国とも書かれていたようですので、タジックのことかもしれません。)    
 
思えば日本の学校教育ではこれらのことに全く触れておらず、何故インドが天竺と書かれたか、何故中国がチャイナなのだとか、たぶん先生も知らないのでしょう、質問すると嫌がられるだけでした(笑)。中国は清の時代から日本でも支那と呼ばれていましたし、西洋の国で最初に東洋へ進出したフランスがシナとフランス語で書いた国の名前を英語読みするとチャイナになったというにすぎないのです。そもそもシナ(支那)という国名が中国に存在していたのでしょうか?(^^♪ 日本の鎌倉時代に相当する頃は蒙古族の元であり、その後漢民族が政権を取り戻した国名が明国であります、さらにその後満州族の国清国が成立し、清国が崩壊して孫文が大統領として成立した国は中華民国であり、そのご毛沢東の中華人民共和国と移り変わってきた筈です。 こうして見直すと、我が国の歴史に比べて非常に短い間隔で幾つかの民族が交代に支配した土地が中国だということが分かります。
良く言葉に出てくる4000年の歴史が何処にあるのでしょう?(^^♪。土地があり、そこに人々が暮らしていただけのことなら何万年も前からのことであり、そこに幾つもの国が興ったり、滅びたりを繰り返して来た土地が漠然とした中国の土地なんです。最初に統一国家を立てたとされる秦(シン)が始まりで、次いで漢ですが、以後戦国時代となり、北方民族、南方民族、西部民族、東部民族などが、交互に立ち代わり王朝を築いており、蒙古族の元や満州族の清などが大国家を築いてきたのです。Chinaのもとになったシナに近い名前の国は、当初の秦と清が近いかもしれないという程度。

 さて、仏教発祥の地はインドの奥地でネパールやブータンといったヒマラヤの南側に位置するので、中国から玄奘法師が旅をするにはシルクロードを西へ大回りし、現在のアフガニスタンを縦断する形で南下してから東方へ転じて北側から見ればヒマラヤの裏側へ回り込む旅程になるはずです。
直線的に見れば長安(現在の西安)という唐の都からは遥か南方の別世界です。
西遊記という言葉からも読み取れるように、天竺への旅は西方へ向う旅だった筈です。中東のペルシャやアラビアの方が交易で近かったはずであり、現にマルコポーロの旅などがヨウロッパから行われています。いわゆるシルクロードの旅です。このルートにより中東のペルシャ辺りから唐を経て日本まで伝わった宝物が正倉院に残っているといわれます。このルートを利用してヒマラヤ山脈が終る西方の地、中央アジアの国々が、西洋と中国それにもう一つのインド方面の3方面を繋ぐ一大交易拠点であったと思われ、それら国の中で最も南方に属するタジック人の国が、ヒマラヤを回りこんで東南へ向かうインド方面への窓口であり、所謂インドには当時確立した統一国家は無かったようですが、北方の地域を支配していた王朝はヴァルダナだとか。
当時西暦600年頃はヨウロッパではローマ帝国が崩壊し、それぞれの国が勢力争いをしており、イスラムも大きな力を持ち出していた頃です、イスラムの中心勢力がペルシャであり、今のイランからイラク、サウジアラビア、エジプトまで跨ぐ大きな国だったと思われます。このペルシャの東北に位置し、正に西洋と中東諸国、中国、南アジアを繋ぐ位置が現在言うところの中央アジアの国々であっということです。当然唐から西域へお経を貰いに行く旅をした玄奘が到着した最終の土地もこの中央アジアの一角であったと思われます。そこから南方へ下って遥かインド亜大陸を横断した東方のガンジス川奥地に行くことは不可能では無いでしょうが、西域への旅ではありません。天竺という漢字(唐のの時代ですから唐字とうべきかも)がそのときどういう発音をされていたのかわかりませんが、当時のインドの王朝の名前とも一致しない上、天竺に相当する地名も見つかりません。
そらくはタジックという地名を漢字で当て字をしたものだと推察すべきです。(^ガンジス川の上流ガンダーラの辺りが仏教の聖地の筈であり、ヴァルダナ国を含めテンジクと読めるような地域はありませんが、タジックを天竺(タジック→タジク→天竺)と書いたのであれば納得がいきます。アフガニスタンでタリバン政権が仏教の遺跡であるバーミヤンを破壊しているというニュースが飛び交ったことも記憶にあるはずです。そう、天竺(=タジク)とは今のアフガニスタンの北部であったと考えられます。
仏教は生まれた土地から西方と東南方向へ伝わっていき、東南へ向かったものが現在のミャンマー(ビルマ)、タイ、カンボディア、ベトナムなどインドシナ半島から更に下ってマレー、インドネシアへ伝わりました。西方へ伝わったものが現在のパキスタンを抜けてアフガニスタン更にイランの北部まで行き着き、アフガニスタンのバーミヤンで大きく発展し、そこから北上してシルクロードにあった敦煌でも栄え、そこから東方へ方向転換し、中国へ入り、チベットでは一大発展を遂げており、更に東の唐の都へ伝わり、地の果てにある更に日本へ伝わってきたということになります。インド本国はヒンドゥ教になり僅かにスリランカだけが仏教国として名残をとどめています。中央アジアの国々はイスラム化し、中国や朝鮮の国々も道教や儒教化し、仏教はスリランカの他、チベット、日本、タイ、ミャンマーなどだけになってしまいました。
この間各地の土着の宗教との混交もあり、色々な要素が加味されて来ており、唐では深く研究されて更に学問的になったと考えられます。護摩ということばをご存知でしょうか?大きな火を焚いて祈りをすることですが、この辺になると仏教よりもペルシャやタジックの奥地で力を持っていた拝火教(ゾロアスター)の祈りそのものです。護摩壇で火を焚いて祈る手法はゾロアスターの呪いであり、真言密教のオドロオドロしい一面ですが、釈迦の仏教とは相容れないものを感じます。
さて、天竺という言葉のゆえんは以上ですが、仏教にまつわる言葉は古代インド語のサンスクリットであり、その発音を当時の唐文字で当て字をした文字がお経の文言です。漢字の持つ表意語としての意味は全く無く、只発音を真似て当て字をしたものです。般若という言葉は良く使われていますがサンスクリットのパンニャ(智恵というような意味)の音訳文字であり、漢字としての意味を持っていない言葉です。菩提も同じく良く使われる文字ですが、万博でネパール館の説明に英語表記でボダイと読める文字を見つけました。サンスクリットで般若と同じような悟りの智恵を言うようですが、日本語化した意味合いでは先祖の霊魂に当たります。
なお、このサンスクリットを当時の中国では梵語と称し、毛筆書きで筆写した文字が梵字だったことになります。お寺の坊さんが勿体付けてお説教に利用して説明するとしたら、サンスクリットでの語源を研究してからにして欲しいものです。先達、教師から聞き伝えたものを何ら咀嚼しないで勝手な意味付けで生徒に教えるだけでは寂しいものがあります。片言のサンスクリットを棒読みしているのがお経なのかも知れません(笑)。

某氏からマンダム氏の歴史論は裏歴史であると言われましたが、歴史そのものが書き残されてきた物語であり、作者もしくは編集者(えてして国家が編集者である場合が多い)の意向に沿わない部分は書き換えられてしまっているお話なのです。逆に言えば都合よく作り上げられた物語であるのです。
裏説こそが真実を推察している可能性が強いのかも知れません(^▽^笑)。
西遊記は唐から西域への旅を書いた物語ですが、唐の都からインドは西域ではなくて南方であった筈ですが、何の不思議も感じないで西へ旅をしてインドに達することに不思議を感じないということが不思議ともいえます(^^♪。こうしたことからインド=天竺論に異を唱える日本人も少ないのでしょうね(^^♪。どうでもいいことなのでしょう (^^♪。

なお、筆者は勉強不足で西遊記を読みきった訳でもなく、伝聞程度しか知りません。また、先人が既に天竺=タジックという解説を出しているかどうかについても検証しておりませんので、もしどこかで既にご存知の話であったら、是非知らせてください。私が作り上げたという話が2番煎じであればこの文書は削除いたします。
 
追記:最近の新聞記事でアフガニスタンのバーミャンにおいて唐の僧玄奘が来訪した証拠物件らしきものが発見されたとか出ておりましたところから見て、学者の間では当然の定説かもしれませんね~。

なお、タジックという国を中国史では 大食 という文字を当てるということも知ったので、天竺論の空想が崩れますねぇ(^^♪。

マンダム 記

天竺木綿からも連想できる古代のインドのことですが、