ヤマトの創建について ⛩
このところ梅原猛という人の書いた本を読んでいます。京都大学の哲学を学んだ有名な哲学者だそうです。仏教伝来の頃とか神道との関わり、古事記に関わる新説など古代史に深く興味を持って研究している学者でもあるようです。
天孫族と出雲族、出雲神話等に関わる新しい仮説を建てて説いている本ですが、大変興味を煽られるところがあり一部を紹介すると共に、ものの見方について頷けるところがあるので感銘を受けました。
一般的には北九州に発した渡来人に起因する天孫族(高天原へ神が降臨して生まれた国と称する人達=神武東征で畿内へ進出したとされる)と出雲族(天孫族よりも先に畿内へ王国を築き上げていた出雲出身の同じような渡来人の子孫達)の争いがあって、天孫族が勝ち、出雲族は負けて出雲へ引きこもったと言われており、出雲族は銅鐸文化の民であり出雲で沢山の銅鐸が発見されてもいます。後から乗り込んだ天孫族は鏡の文化の民として伊勢神宮へ八咫鏡(やたのかがみ)を祭っているといわれます。
こうした通説を打ち破り、新たな思考で古事記を分析し、違った見方を導き出した仮説を梅原氏が述べております。
即ち、出雲族とは本来出雲地方に居ついていた民ではなく、もともと大和に王権を建てていた人たちであり、九州勢との争いで破れ、王権を奪われてしまったのだと、断定しています。この後で天災地変などの災いが幾多も起こり、当時の神道の精神から滅ぼされた旧王族が祟りを起している結果であるとして、祟りを沈める為に新王朝が旧来の神道に則り、出雲へ大きな社を築き、魂を出雲へ弔ったのである。銅鐸もその節に出雲へ移動して埋めたと推察しているのです。奈良からは随分離れた辺境の出雲へ魂を封じ込めたという物語なのです。ちなみに新王朝は仏教を推進していたという。
スサノオノミコト、大国主命など全て出雲とは無関係な人たちであり、戦争で殺されてしまったことから祟りが起こったとして、出雲の人たちは国を譲って出雲へ引き上げたような物語を作り上げたのが、古事記の神代記に書かれているれている出雲神話などの実態だと暴いています。出雲風土記などの出雲伝説にはスサノオノミコトも大国主命も全く記されておらず因幡の白兎の話も北九州(宗像)であった話(百済が滅んだ際に船を連ねて大量の難民が渡来して来た時の様子)を置き換えて書かれていると推理しています。
さらに進んでいくと皇室の後継に越の国から皇子を迎えたというくだりがあり、これにもいわく因縁があるらしい。蒙古系の騎馬民族が天孫族の王朝を破りこの人たちは新潟辺りに居ついた渡来人の子孫であり、現天皇家はその系統が続いていると言う説まで出てきます。
こうした生臭い殺し合いによる政権交代を穏やかに書き改め、一系が2000年も続いているように美しく表現し、当時の神道と仏教の争いなどもソフトな物語に置き換えてしまっているのが古事記であり、藤原氏が長期に政治権力を握るために美しく作り上げられた物語として古事記を捕らえた仮説です。政権の委譲が国譲り伝承などのようにスムーズに行く訳がなく其処にあるのは殺し合いの戦争であり、殺された人たちの祟りを封ずる為に、魂だけを出雲に封じ込めたとすると、神々が出雲へ集まる話なども幾つもの豪族(物部氏、大伴氏、蘇我氏など)が殺されて出雲へその魂だけを祭り上げた例え話になります。出雲大社の建設も大和政権が古事記の物語を実話に見せるべく建立したものであることになります。
一見では美しい大いなる和の国として国を譲り受けた物語に仕立ている裏には血なまぐさい皆殺しの怨霊が取り付いていることになり、民話や童謡などに隠されたおどろおどろしいような過去や、聖徳太子一家惨殺などの歴史がちらほらと見え隠れしているのを掘り起こした解説には独特のものがあり、思わず引き込まれてしまいます。
日本の古代史に関わる書物を色々と読んでいる内に、一般的に言われている日本の古代史が、古事記や日本書記に大きく影響されていて、謎と言われるような部分が多く、て明瞭ではないとされてきています。
特に神代からの伝説とされている部分中におかしな所が多く、平安の世を築き以後永遠の系統を形作る為に藤原氏の壮大な企みが隠されているとする、梅原猛氏の書いた書物に目を見開かされるものを感じました。
日本へ文字が伝わり、歴史を記すことが始まったのは飛鳥時代ごろからであったことは容易に推察が出来ますが、それ以前の僅か前の時代のことをあたかも大昔の伝承のように書き換え、勢力争いで負けた氏族の恨みが残らないようにすり替えた話が、出雲伝説であり、この話がもとで後世になって色々の話が新たに作られてきており、それが又伝説的な歴史となってゆくというものです。
出雲とスサノオノミコト、オオクニヌシミコト、因幡の白兎、ヤマタノオロチ伝説など関わりのある話が沢山残っており、あたかも出雲が日本という建国の歴史に大きな地位を占めたという仮説が成り立つほどに存在が大きいのですが、実は違うのではないかという。
山陰にはそのような大きな力を持つ豪族は存在せず、北九州にあった幾つかの王国と覇権を争うような勢力は畿内(堺近辺-仁徳陵もここにある-から大和の地にかけて)にしか存在しなかったという。彼らも遥かな過去をたどれば九州から大和へ移動してきた可能性が強い。 いわゆる神武東征により大和王朝が出来たという物語です。
北九州勢も単一ではなく、朝鮮半島からの渡来の時期も大きく違いがあり、遥か以前から渡来してきた人たちと、朝鮮での戦乱や国の没興で新たに避難して来た人たちとは言葉も祖先も違う人たちであり、更に日本には縄文人として何万年も前から生活している人たちもいるという珍しく血の入り混じった人種であるということが判ってきました。
現在の大和人の支配者階級の主な血筋は新たな時期に朝鮮半島から渡って来た人たちであり、彼らの祖国は朝鮮の覇権争いの中で滅びてしまったと言う歴史を持つという。
これだけ韓国と近くにいながら、また同じような容貌や体つき、生活も似通っておりながら全く言語に同じ意味を表す共通の言葉がないということにもそれ(滅びてしまった民族)が原因している意味があることなのかもしれません。即ち朝鮮の中での国家覇権争いの中では満州系の民族の国や漢民族の国や、蒙古系、さらにはイスラエル系等まであったというような話も聞きます。それぞれ別個の言葉を話していたとしても戦乱で滅んでしまえば言語も使われなくなっていきます。そうして滅んでいった民族が日本へ大挙して移り住んできた可能性は大いに有り(特に百済滅亡に際して)、後に彼らが大和朝廷を打ち立てたという説にもなってくるわけです。
なお、記紀の謎については沢山の書物が出ており最近読んだ本では中国の史書にでてくる倭の解明も幾つかの仮説がでて居ます。
「漢委奴国王印」「卑弥呼」「邪馬壹国」などですが、まず最初の金印の文字を「漢の倭の奴の国の王」と訳すことが大きな間違いとしています。
「漢の委奴の国の王」即ち、委奴国の王であり、北九州に実在した伊都国を発音表記したものであるとしています。
本来「委」であったものをあえて倭」に置き換えています。これも大和の和に通ずるので都合が良かったのでしょう。
ついで有名な邪馬台国ですが、先に述べたように魏志倭人伝にでてくる言葉は邪馬壹国ですが、この壹は壱の旧字ですが台の旧字である臺によく似ていることから邪馬臺国と誤って読まれたとしています。本来ヤマタイコクではなくヤマイチコクなのだとする。なお壱はイの発音で読まれ委に通ずるとしています。
日本には九州だけでも数ヶ国の王国があり、全国には数十の国があり、日本全土を統一的に支配する王朝は無く、そのような列島全体を代表するものが求められるのは中国や朝鮮との外交関係において必要とされてくるようになってきてからのこととしています。
こうした中で宗主国として倭国とは長年九州にあった王国の内で勢力が強い一つが入れ替わりながら日本を代表をしていたとする。魏志倭人伝にでてくる女王国とは所謂邪馬台国であり、卑弥呼が女王だったと考えられ、神功皇后の三韓征伐などに出てくる神功皇后こそ卑弥呼であり、宇佐神宮の本来神だとする想像も出て来ます。
いずれにせよ、九州に王朝があり、中国共交流していたことになります。それらは福岡にあったり大分や宮崎にあったり、又熊本にあったこともあるが、福岡辺りにあった王国が日本を代表する朝廷であった歴史が最も長いとしています。
当時の倭国(九州朝廷)の支配層は朝鮮半島の南半分と同系の民族でもあり、神功皇后の三韓征伐の歴史に見られるように倭が大きな力を持っていたと想定されます。
現在の韓国と日本を足したような勢力圏を持っており、その首都は大宰府にあり、大和や畿内、さらに中部や関東にあったとする諸国よりは遥かに進んだ文化や建築物があり、法隆寺などは後の時代に大宰府から移設されたのではないかとまで想像する。
この後、韓族の増加により、朝鮮半島における日本の勢力圏が危なくなり、百済の滅亡に絡んで大々的な反攻を行ったものの白村江で大敗し、時の九州王朝所属の王族や将軍は全て囚われてしまい、王朝は衰退するのですが、戦いに参加するはずの大和軍は唐と内通して参加せず、敗因の元となりましたが、唐の支持を得て日本国の代表になることが出来たと推察しています。
この時の大和勢の天皇が天智であるとしており、この天智は裏切り者として残存九州勢や諸国の王から支持されずに九州出身の天武にとって変わられものの、その後に和合工作が行われ、大和朝廷が日本を代表する朝廷となり、この頃から日本国と称するようになったとしています。
以後は大和王朝が日本を代表する宗主国として現在へ至るとしていますが、古い九州王朝の時代の歴史を大和朝の歴史として作り変えてしまっているので古事記、日本書紀などが捏造だと謂われている元になったと謂う。
大変興味を惹かれると同時に説得力のある仮説でしたので紹介させて戴きました。
言葉や文字、仏教などが国内全般へ広がる為には数百年の年月が必要であり、
江戸時代の寺子屋教育で文字がようやく民衆のものになったという歴史があるのに、百人一首で有名な万葉集にあるような歌が詠まれて記録されたのが古代にあったとすれば外来の文化ではなく、旧来からそれらを使っていた民族が日本列島を開拓した弥生人であると考えるべきであり、石器・土器の生活で移動しながら生計をしてきたという縄文人が発展したとは考えられません。
純粋の縄文人の生き残りであると考えられる蝦夷やアイヌは近代まで文字を持たなかった事でも知られています。
又、狩猟と採集で生きてきた縄文人は当然小集団で移動しながら生活し、定住して大型の都市を作らなかったと考えられるので、日本各地にあったと謂うところの王国は中国系もしくは朝鮮などから渡来して来た人達、もしくは彼らの子孫であったはず。
(今日DNA鑑定などで朝鮮人と日本人が全く違うと判定されるようになると、こうして作られてきた日本の歴史は、支配者階級だけの物であり、アイヌを含む縄文人が圧倒的な人数を持っていて、純潔を守った縄文人は北海道や沖縄へ追いやられてしまったものの、本土においては渡来人の血筋は薄められて消えて行ってしまい、縄文人の血として現在に至っていると思われます。)
日本の各地に沢山の王国があり、国を代表する朝廷は一つではなかったとすれば、後に大和朝廷が古古代から一系統の天皇で日本国を治めてきたという記紀の記録は捏造された歴史書として当然否定されても不思議はありません。
各地の王国にあった歴史書物は大和朝廷の時代になってから焚書処分され、かってのアレキサンドリアにあったエジプト文明を記した膨大な書物がオスマントルコにより全て焚書処分されたことを思い起こします。
文書に残って居ない歴史ですが、古事記や日本書紀、中国の史書などから推察して想像する事は大変興味深く面白いと感じます。