76回目の終戦記念日 🕊 🕊

 8月15日の終戦記念日を迎えて思いついたことを書き記してみました。
昭和21年に小学校の一年生になった当時、それは厳しい生活でした。岐阜県の大垣市に住んでいましたが、市街地は空襲で焼け野原になっており、小学校も焼けてなくなっており、近くのお寺で午前・午後の2部制の授業で、教科書もガリ版刷りの手作りでした。
 親は内地勤めの兵士(上等兵)だったので、復員は早く警察官として復職したのですが、食糧事情が悪くて今と比べると信じられないほど貧しい生活です。米は僅かの配給制で白米のご飯は大変なご馳走と言う時代。麦飯なら上等で、芋や大根をまぜて増量していた覚えがあり、田舎へ買い出しに行って闇市で売って生活の足しにする闇屋が大活躍という時代、バラックの闇市が一杯存在していて、そこでしか生活必需品が手に入らない。
公設の市場が作られて大いに進化したもの。小学校の給食はアメリカから提供された脱脂粉乳を湯に溶かしたものが記憶に焼き付いています。
 少しづつ建設が進み、住宅や商店が回復しつつ食糧事情も良くなってゆき、学校も再建されてゆきました。成人男性が皆無(全員兵士として招集されていた)の生活から一変して、世の中は後にベビーブームと言われるような子供が溢れるようなにぎやかな世界に一変し、米兵とパンパンガールが闊歩する様子は正に女性ファッションの始まりでした。
 思えば馬車屋が荷車で引っ越し荷物を運んでいた時代に、自家用自動車で生活していたアメリカと戦争をして勝てるわけがありません。ジープに乗って街を巡回する米兵が子供に投げ与えるチュウインガムに喜んで飛びついたのが日本の子供だったのです。
闇市で手に入る米軍の野戦食料は濃緑色のカートン入りのセット食料で、缶詰・ビスケットやクラッカー・飲み物・デザート等にタバコまで入っており、日本人が食べたことが無いほどのご馳走でした。
 (写真は米軍野戦食Kレーションの朝食セット)
   
当時は甘い物等は皆無の生活の中で、チョコレートの塊などは宝物だったのです。
飯盒で飯を炊いて梅干しがあれば贅沢という、日本兵と朝・昼・晩と毎食写真のようなセット食が配られる米軍が互角に戦えるわけはなく、ほとんどの守備隊が全滅して負けたのも頷けます。
 その後もアメリカの保護を受けて、キューバ糖の配給で10年振りに砂糖に巡り合ったというような国情だったのです。衣服もなく、生活用具もなく、自転車を持つのがせいぜいで、毎日の食糧確保が大変、勿論革靴は大変な貴重品と言う貧しい生活は今に生きる日本人には想像も出来ない貧しいものです。
 アメリカに対する反感は全くなく、帰還した兵士たちは戦争を語ることなく、アメリカの保護下で幸せになりました。
 その後に起きた一部学生による反米闘争や赤軍事件なども、多くの国民の支持は無く、米軍の駐留は全国に数十カ所の基地を置いて続き、現在に至っています。
 戦争は良くないものとして強烈に意識され、講和後に起きた賠償金支払いは全ての東南アジア諸国と韓国に支払われ、日本がいかに悪者であったかを自覚させられたのも私たちの年代です。戦争が終わってよかった、負けてよかった、アメリカのお陰で軍国主義の縛りが溶け、民主化も自由も得た、さぁ復興だ!という時代になったのです。
 おりから世界では民主主義と共産主義のイデオロギー戦争が始まり、朝鮮動乱・ベトナム戦争と続き、戦争特需景気で経済復興が始まり、私が就職した頃は港は米軍用の三菱やトヨタのジープや兵員輸送車で埋まり、大量の物資が輸出される時代でした。
日本は戦争には参加せず、漁夫の利を得る形で戦争特需景気に沸き上がっており、アメリカの注文であらゆる産業が復興しました。特に乗り物の発展が大きく、最初はバイクでメーカーが乱立して10数のオートバイメーカーが競争したものです。それが軽3輪~軽4輪へ発展し、貨物運搬用にはオート3輪と呼ばれた3輪貨物自動車が大発展しました。ダイハツ、マツダ、三菱はオート3輪で発展し、ホンダ、ヤマハ、スズキはバイクで世界を制覇するまでになりました。続いてトヨタ、ニッサン、プリンスなどが4輪乗用車メーカーとして軍用ではない国民車作りに乗り出し、取捨選択されて現在に至っていますが、戦後の20年は驚くような変化に満ちた発展の歴史です。
せいぜい家庭用には自転車、運搬用にはリヤカー、業務用運搬車が荷馬車と言う終戦直後の世界から、オートバイ、オート3輪と変化し、軽自動車やマイカー時代へ変化するまで僅か20年です。
 東南アジア諸国への賠償金の支払いは膨大な金額でしたが、彼らには受け皿がなく、日本の商社が経済進出をして各地で活躍しました。インドネシアを巡る賠償金の受け皿も日本の商社で、当時大統領だったスカルノ氏に賄賂政策で接近して活躍し、大きな話題になりました。フィリッピンにも鉄道を敷きましたが、メンテナンスの技術もなく、そうした文化もない国への無駄な投資として錆び果てて廃棄されるという結果となり、地元の文化に基づかない無駄遣いを強制されたとして、恨みを買ったという良くない結果も残しました。国民の税を使った大きなお金を賠償金で支払いながら受け皿は日本の商社というキャッチボールであり、現地の人にはなじみのない施設を建築したりしてまさにエコノミックアニマルと言う悪い面も見せました。
 こうして豊かになったに日本人が次に行ったことは、団体旅行で香港・台湾・シンガポール・マニラ・韓国などへの買春旅行です。当初は農協団体が有名でした。経済発展の裏にこうした汚い一面があり、アジア諸国を援助した裏の部分では随分嫌われるようにもなりました。
 ま、敗戦後の瓦礫に埋もれた日本が復興を遂げ、次いで近代国家として発展し、アジア第1、世界でも2位の経済大国へ上り詰めるまでの働きを担ってきたのが我々の年代です。私自身も貧しかった少年時代から、下積み会社員時代のがむしゃら勤務を経て、高度成長経済の下に、5年毎に給料は倍増し、生活水準も向上し、毎週ゴルフを楽しみ、2~4年ごとに自家用車を買い替え、接待費を自由に使える管理職会社員となり、贅沢な生活が出来るまで上り詰めましたが、バブルの時代が終わると共にリタイヤするという、まさに波乱万丈の右上がり人生を歩んできました。
 以後、現在に至るまで続く停滞した経済状況は極めて寂しいものがありますが、バブル崩壊以後の過剰投資警戒が行き過ぎた感があるうえに、最近のコロナ危機です。これは世界戦争に例えるほどの影響を世界へ与えています。
 大東亜戦争・太平洋戦争と今回のコロナ世界戦争は同じようなものですので、勝ち残りでなく、負け残りであっても良いのです。戦争は何時かは終わります、終わった後からが勝負なのです。歴史に学べば、コロナ戦争には負けた方が良いのかも知れません。
人類は半減し、負けた廃墟から立ち上がることで世界は新しくなるのかもしれません。

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