略歴と人生観 🌈

筆者は、岐阜市に生まれ育ち大人になってから名古屋の会社へ就職しました。海運会社で進歩的なところのはずですが、岐阜と愛知の考え方の違いに驚いたものです。

 織田信長は岐阜市では郷土の英雄であります。もともと尾張の育ちで名古屋人でしたが、名古屋では受け入れられない性格だったようです。家康、秀吉型の周りから支えられる人が理想的な指導者で、自ら統率する信長形は受け入れられない土地です。
 岐阜育ちで物をはっきり言う私は随分疎外されたようにも感じ、逆にだんまりの名古屋人を馬鹿にして来ましたが、無駄話をせずに働いて上げた実績が物をいう名古屋の凄さに気が付いたのは随分後のことになりました。口数の多いやつは馬鹿扱い、まず力をつけよ、なのです。実績・力は口に出さなくても全国に知れわたります。声高に宣伝をしませんので、あまり知られていない部分が多いのですが、全国の皆さんが普段使っている家電製品、家具、各種生活道具をはじめ、衣服、自動車、鉄道車両、農産物、菓子、雑貨、味噌醤油から、調味料、工作機を始めとする工場用の機械などありとあらゆる物に愛知製が多く、しっかり作られているので全国で愛用されています。工業製品出荷額は勿論日本一であり、加工食品は勿論、農産物、酪農、果実、水産品などもトップレベルにあります。
 名古屋製、愛知生まれと口に出して宣伝しなくても、知らないうちに全国制覇をしている愛知製品は数限りなくあるのです。力のあるものが勝つ、力を付けよ、これが名古屋人の心なのです。しゃべる奴は力が無いから力んでいるとしか見られません。明石屋さんまのようなのが名古屋では馬鹿の代表に当たります(笑)。
 今日の日本において、おしゃべりの大阪、お祭りの東京にたいし、物作り愛知が大きな存在になってきましたが、当然のことです。
 力の無いものが何を言っても全く通じない世界があるという事に気が付いてからは、実績だけが物をいうということに徹しました。 独断独歩で特に上層部からは疎まれましたが、常に新しい構想を考え出して、実績を拡大してきて誰にも文句を言わせない(笑)というサラリーマン生活を全うし、最高職歴は営業部長でしたが、バブルの時代に管理職として随分遊ばせて貰いました。バブルが萎むと同時に61歳で辞めました。
    
遡って子供時代は、親の職業(警察官)のために小学校だけでも4回転校し、中学では2回転校したので、いじめられッ子になりやすい立場でしたが、既存の番長を見つけて喧嘩を吹っ掛けて、立場を追い出しました。小5の時、6年生5人を相手に喧嘩をして、勝ち残ったこともあります。それほどの腕力があったはずはありませんが、気力勝ちでしたね、負けるものかという気力はその頃からあったということでしょう。何時しか一人消え二人消え、最後の奴も泣いて逃げて行きました。
中学生の頃は頭の良さで成績トップを続け、50人教室が一学年で13組もあるマンモス中学校でしたが常に学年トップの成績でした。勉強らしいことはあまりしませんでしたが、県のIQテストで県内2位の176を取ったこともあります、たしかトップに178が1人いたと記憶しています。後にこれが凄い数字だと気が付きましたが、当時は1番を逃したか、という気持ちだけでした。県立の進学校を受験しこれもトップの成績で入りました。というのは入学式の前に高校の先生が家を訪ねてきてそれを告げたのです。新入生総代で挨拶をする事の依頼に訪れたのです。620点満点の8科目テストで600点を取ったという天才児扱いでした。当校は毎年東大へ何人入学するかを争っていた進学校なので数に入れ得る新入生だったのでしょう。2番目以降だった同級生が後に東大の教授を務めています♪(#^ー°)v 。入学後は家庭の事情が変わり、サラリーマン(警察官)だった親父が亡くなった事で就職組みにまわり、名古屋へ出て来た訳です。進学を諦めてからは沢山の本を読みました。小説の類が多かったのですが、外国文学の方が好きでした。国際的な地理・歴史感覚や言語・発音・人の名前の呼び方などについての知識はこれらから得ています、聖書のペテロが英国ではピーター、フランスでピエール、ドイツでペーテル、スペインではペドロ、イタリアではピエトロ、ロシアではピョートルとなることなどです。
 映画や音楽も好きでしたがやはり外国物が好きでした。狭い範囲の世界で、心の動きを中心に描く日本の文学は一通りは読みましたが、もう一つ感動がありません。勿論、エミールゾラとか、モーパッサン、スタンダールなどの情事を描いた小説もよく読みましたし、エロ文学も沢山読みました。また、映画少年でもあり、戦後に入ってきた外国映画は全部というくらい劇場で見ています。
駅馬車から始まって黄色いリボン、底抜け2丁拳銃、荒野の決闘、真昼の決闘、白昼の決闘などの西部劇や、ヨーク軍曹を初めに、ネブラスカ魂とか後の眼下の敵、頭上の敵機などの戦争映画、3銃士や鉄仮面、岩窟王といった騎士映画、海賊映画など、もっぱら活劇映画主体ですが、一方では裏窓やサイコ、鳥といったヒッチコック映画、パジャマゲームやグレンミラー物語などに代表されるミュージカルものや音楽映画も逃さず見ております。聖衣、十戒、ベンハー、スパルタカスなどの70mm映画の始まりは凄い反響でした。もちろん南太平洋や、ウエストサイド物語などのミュージカル映画も大評判で、映画がものすごい人気の時代でした。日本でも裕次郎が登場してきて正に映画全盛時代が暫く続きました。私自身は洋画ファンでしたので日本映画はあまり沢山は見ておりません。

 海運会社で、港湾物流の仕事を担当し、国際感覚と英語を覚えました。港湾物流の世界は私が勤務していた40年の間に大幅に変化いたしましたが、ご他聞に漏れず労働集約型産業の一種で特殊な構造をしておりました。山口組の大きな後ろ盾であった時期もあり、当時本家の若頭筆頭だった愛知のH組会長とも親しくつきあいをし、ゴルフを一緒したこともあります。仕事で下請けとして活用しており、やくざの大親分から中元やお歳暮の付け届けが来るという立場だったわけであり正に怖いもの知らずの人生でした。
担当した得意先がこれまた日本一のN社で、此処からの信頼も厚く、大きな売り上げと利益を生み出していたので、社内ではなんでも言うままに仕切れるという恵まれたサラリーマン生活をしてきました。
    
結局61歳まで勤務しましたが、部長職になった50才頃にOA化が始まり、当初は当部の事務を社内に先駈げてシステム化するという先導役になりました。後これが社内標準になり更にパソコンの導入で端末機をPCに置き換えることでワープロ機能もカバーするという時代になりました。50代になってからのOA化で苦労をすると言う話を良く聞きますが、私は面白く感じて、率先して習得し、部員に指導するという立場でした。なんでも興味を持ったら、人以上に覚えるまでやる、という性質がすべての行動を作り出しています。 専門学校卒の若い女性に、馬鹿にされながら指導されることに我慢がならず、独学で覚え、何時しか遥かに凌駕していました(笑)。何事に対しても同じで、教えられたこと以外の質問に答えられない、即ち、周辺技術、関連技術については他の専門家にゆだねるという有資格者を常に馬鹿にしてしまい、多くの周辺技術を含む専門家の、それぞれ60~80%ぐらいずつを1人で習得してしまいました。年だから新しいことが苦手という言い訳は嫌いです、ずるけて逃げているだけなのです。経験を生かせば若い人より知識も豊富ですぐにマスター出来る力があって当たり前です。専門学校で、貧しく狭い知識だけを詰め込んできている若者に負ける訳がない、これがあらゆる分野における私の人生哲学です。ひいてはこれが先生とか有資格者だというあらゆる分野のプロを馬鹿にしてしまうことになります(^▽^笑)。プロのいうセオリーとは新しい発想を押さえ込むものです、別の角度から見ると、違う方法があってもいいはずだ、という思い付きが質問となって、プロを右往左往させることに面白さとあほらしさを感ずると、自分で研究してみる気持ちになります。解決したらプロを上回ったことになります(笑)。

 勤務の合間を見て、スキー、釣り、山とキャンプ、海とヨットなどを楽しみ、カメラにも凝り、一方ゴルフも覚えました。中でもスキーには一時熱中し、ウエーデルンで急斜面を滑り降りる技術をすぐにマスターしました。ゴルフに付いても熱中し、その面白さに取り付かれましたが持って生まれた向上心があり、理論的な組み立て無しで教えるコーチ、指導者、先輩などが言うことに納得できないことが多すぎて、受け入れることが出来ず、自分流の理論を確立することに楽しみを覚えました。頭で考えるスポーツをするようになると、急激に上達するということに気が付きました。我が国ではスポーツ物理学が軽視されていて、根性論がまかり通っていますが、間違いです。作り出した理論に合わせて自分の体を動かすことで、確かめることがすぐに出来ます。「頭では理解できるけど身体が言うことを聞かない」とは良く聞きますが、自分の身体を自分の意思で動かせないものが、上手くなろうとすることは出来ません。
 すべてのプロが言っている、あたかも違っているように見えるそれぞれは、集約すると、このことを言っていると、説明の裏に潜む真理を見つけ出すことが大事です(殆どの場合言っている本人も気がついていません)。理論立てが出来たら、その通りに身体を動かしてみて、成功だったら、これが所謂極意なのです。別の観点から新理論を創出するのです。こうして段階ごとに新理論(笑)を見つけ出しては、ガラッとフォームを変えるようなことを2-3度行いました。私のゴルフは40才近くで始めたサラリーマンゴルフですが、3年で90に達し、5年ほどで80ぐらいで回るようになりました。78を2回出しておりますが、一度は50歳をだいぶ過ぎてから出ました。この頃は力も衰えつつありましたので、3回目ぐらいに当たるゴルフ理論の見直しによるフォーム転換のあとです。イーグルは4回経験し、いまでも鮮やかにそのシーンを思い出せます。10年やっても100前後をうろうろしてなかなか上手くなれないと言うことを楽しんでいる人を見ると羨ましくなります。極めてしまうと面白くなくなります、先があってこそ励めるものですので、週に一回の、サラリーマンゴルファーにとって80を切ることを求められては苦痛しかありません。以後腰痛も起きて興味を無くしてしまいましたが、長いブランクのあと(4年ほどクラブを握らずに)一度コースを回りましたが、簡単に80台が出て、ゴルフ好きばかりの2組8人のトップでした。他人が馬鹿に見えてきて、以後ゴルフは止めました。
希望者があれば極意を伝授します。誰でもすぐに90を切ることが出来ますよ(笑)。
         
この間バイク、自動車にも関心を注ぎ、2~4年で買い替えを続けて、15,6台の車に乗ってきました。運転の限界に挑戦することが好きで、山の峠道を高速で走るのが好きです(笑)。スキー場へも車で通いましたので雪道運転には地元の人よりもうんと慣れております。名古屋から長野まで高速道の無い時代にマイカーで行くのですから、ゆっくり運転では届きません。40キロから60キロ制限の一般道を通り、長野まで320KMの道のりを4時間で走ったこともあります。勿論ところどころ雪があって大変緊張します。信号も交差点もあるので、常時100kmを越えて走ります。冬のモンテカルラリーみたいなものでしょうか。車も2台ほど壊しましたが、お陰で限界を確認できましたので、以後安心して限界寸前を楽しんでいます。誰よりも早く、且つ安全な運転をしています(笑)。

 PCはその前身のワープロの頃に自宅用にオアシスを買い込み、ウィンドーズ98がでて早速買い変えました。ノート型でCPUが250k、ハードディスクが4.7Gと言う、今から見れば小さな機能でしたが30万もしました。やってみると面白くて結構のめりこみました、何でも出来るということが判るまでに少し時間が掛かりましたが、解説やマニュアルは読まなくても、ウィンドウ(窓)を順に開けてゆく事で、したい操作が出来るようになっており、プロと称するひとやメーカーのサービスマンも同じ操作を行って探し出しているだけだと知った時から、尋ねるのを止めました。自分で探しても同じことなのです。人に聞いて覚えたことは使わなければ忘れてしまいますが、自分で苦労して見つけたことは身に着きます。疑問と研究心、思いついたことを実現させるのに諦め心を起こさないことが大事です。「こんなことはPCでは無理だろうな」、はありません、すべて可能なのです。凡人が思いつくことなどはすべて用意されていると思えば宜しい(笑)。沢山の天才級の人たちが集まって作り上げたソフトなんです。これはある程度人より先んじていると思う管理人の実感です。
退職して時間が出来たことから、益々色々なことを覚え、ネットでのコミュニケーションや、ホームページは勿論、自宅サーバー、ネットラジオなどにも取り組み、他人がやっていない新しい発想を実現させてきました。

  何にでも関心を向け、やってみて、ある程度極めてから又次への繰り返しの中で、今後も次を求めて挑戦を続ける自分なのだと思います。
今までに関心がなく、また自分に合わないと気づいて、やらなかったことは酒とギャンブルぐらいです。知識欲が強く何でも知りたいという性格なので、60年以上も生きていれば当然の如く雑学博士になってしまいます(笑)。

 なお、国際感覚については仕事柄外国人とよく接触することがありましたので、普通の日本人とは感覚が少し違います。これは彼等から学んだ事ですが、一人一人の考え方が違っているのが普通のなかで、多くの日本人が自分で考えないで、世論に従って行動したり思考することを指摘されて大きく反省をしたものです。
ある、ソ連の船長と仕事合間に雑談をしていた時「貴方の言うことはすべて学校で学んだこと、マスコミが報道している考え方、世間の評判などから来ていて、自分で考えて言っているのではない」と言われました。
 そういう目で良く見てみると、当時 ソ連は鉄のカーテンの国と言われ、すべての人民は情報管理されている、 とか、 日本の漁船がソ連や韓国・北朝鮮などに拿捕されたり、銃撃されるという事件が何度も起こり、対ソ感情は最悪でした。そんな問題をぶつけてみたのです。
 外国航路の船長には、笑い飛ばされました。 我々は外国で現地の新聞を見たりTVを見ることを禁止されていないし、電波は遮断できない。 いろいろな考え方があるのは了解しているが多くの国民が今の政府を支持している。
 漁船問題は、日本側が相手国の国境を侵犯して密漁を行っていた(かも知れない)ことを想像したり、疑ったりしたことがないのね? と言われて、絶句。
 アメリカの一方的な情報に囲い込まれているのは日本の方じゃないかね? これにも返答が出来ない。
 こんな会談が出来たりしたことの積み重ねがあり、国際感覚に目覚めたのが、以後の人生に大きく影響をしたと思っています。
 全くそういうことは考えたことがないというのが 私だったのです。いや、すべての日本人だったのかもしれません。
 マスコミや、周りの人の言うことを、信じてその他の見方があることに思いが及ばんでいません。これらは裏から、皮肉に見るということではありません。表に陳列されている事実を見ようとしていないことや、当然あり得るはずのことも考える事をしないで、マスコミや世間ではそう言われているということしか思いつかないとすれば恐ろしいことです。こういう世論操作により、抜き差しならない世界大戦に走り原爆を落とされて目が覚めたという歴史を忘れてはなりません。他人の所為にしてはいけません、国民全部が万歳をして軍の後押しをしたのですよ、また騙されたというのでしょうか? 

こうした学習の上で、 日中関係、日韓関係も自身で考え直してみると違ったものが見えてきます。歴史の歪曲を意識せずに行っているのです。政治の場ではなく、個人として彼等と話してみるとよく判ります。固定観念で見ているのが我々であり、決して彼等ではないことに気がつきます。靖国問題を戦犯合祀とか、公式非公式などで区別する論などはすり替えにしか過ぎません。防衛戦争で死んだ沢山の犠牲者ではなく、侵略戦争で外国を攻めた兵隊の死者が祭られている神社なのです。爆激で死んだ民間人とかは入っていないのです。国を守る為の犠牲者とは意味合いが違います。おまけに戦犯で死刑になったおよそ1,000人もの人も一緒に葬られているのです。これが靖国神社なのです、国軍の兵士だけが祭られているのです。彼等が何処で死んだのかを考えてみる時、侵略を受けた国の民の感情も理解出来るはずです。勝てば官軍と言う言葉があり、実際にも西南戦争における西郷軍などは賊軍として靖国神社には祭られていません。戦争に負けた側の兵は賊軍でもあるのです。
もしもこの問題が、アメリカからの要請だったらすぐに改めているのと違うでしょうか? 中国や韓国が騒いでいるけど蹴飛ばしているとしたら大間違いだと思いますが、いかがでしょうか? おそらく中韓側から靖国問題を推察すると、アジアの国々を攻めた兵士を大事に祭っていることは、戦争への反省ではなく、敗戦で効果を挙げなかった侵略戦争を次回は成功させるという、意思が読み取られているのではないでしょうか?
靖国神社に祭られているのは、間違った国の政策の為に外国を侵略して、その戦争で死んだ兵士の墓なのです、侵略された国々の被害者たちからは鬼として嫌われているのは戦犯となった親分じゃない、先頭になって突っ込んできた兵士なのです。国として戦争の犠牲者に礼を尽くすのなら被害を受けた相手側にも、巻き込まれて死んだ民間人にも同じようにしなくてはなりません。先ごろ天皇陛下がサイパンで行った慰霊こそが、正しい方法なのかもしれません。
いまなお、韓国の併合が条約により国家間で取り決められた正式の協定である、と説明する政治家が居るようですが、シンガポールで英軍のパーシバル将軍に総攻撃(皆殺し)をちらつかせて降伏のサインをせよと迫った山下将軍(モンテンルパで刑死)と同じではないでしょうか? 
日本が出て行かなかったら、満州・朝鮮共に間違いなくロシアの勢力圏に置かれ、後のソ連の属国となって長く苦しんだであろうという論がありますが、ロシアを追い出した日本が、ロシア以上に民を圧迫した訳ですから、全く言い訳にもなりません。これはロシアを追い出した後、日本が兵を引いて彼等の独立を援助したという歴史があれば、今頃大いに感謝されて国連の常任理事国アジア代表は中国ではなくて日本が押し上げられていたはずです。このことは、フィリッピンのアメリカ軍を叩きのめし、シンガポール要塞にこもる英軍を降伏させ、インドネシアからオランダ兵を駆逐した等の戦争行為全てに当て嵌めることができます。追い出した白人勢力に替わって、現地人を土人と呼び、日本が占領し支配を行ったことを美化しようとすることは出来ません。

こういう風にものごとを公平に見ることが国際感覚であり、この中で日本の立場も認めさせてゆくという努力が必要なことは言うまでもありません。
もう一つの不思議というか、アメリカに対する親睦と好意の感情ですが、日本が戦争で唯一負けた相手国であり、明治の開国以来アメリカとの付き合いが日本の外交の主力相手として存在しており、批判、非難は遠慮するという感情が大きく働いております。中韓が反日を煽る被害者としての立場と同じく、日本人はアメリカによって殺されており、広島・長崎に止まらず、戦争の被害者は兵士以外に数十万人が全国にいますが、加害者に触れた報道は見たことがありません。講和条約以降独立した国家として大きな顔をするようになった日本ですが、アメリカ軍の基地が国内にいくつあるかご存知でしょうか、数十の米軍基地がある日本が、独立した国家と世界の国から認められているのでしょうか? 戦後の占領された状態を安保条約という形式上のすり替えだけで継続しているのでは? というような議論は押さえ込まれて表に出ません。安保騒動を起した学生運動も、オーム真理教も手法の誤りもあって官憲に徹底的に弾圧されました(^^♪。
外国から見れば大変不思議なことです。飼いならされた犬ですか?(これでいいんだよ~の声あり)(^^♪)。
なお念のため、私自身は反米論者ではありません、その文化には大きな影響を受けて育ち、大好きな国です。アメリカに問題があるのではなく、日本にこそ問題があると考えています。
     
さて、話はあちこちへ飛びましたが(笑)、一方で私の身体が元気で若々しいと写真や体験記などで印象付けられているかもしれませんが、こちらについても報告します。
身長170cm 体重59kg で 痩せ型だといわれます。髪の毛は多くて元気ですが、白髪が多くなり染めています。その他の体毛は未だ黒いです(^▽^笑)。
46歳の時に肺がんにかかり左肺を摘出しました。初期だったようですが一度目の手術で悪性腫瘍がみつかり、その後の治療を化学療法、放射線療法、再手術の選択を要請され即座に再手術を選びました。
一ヶ月に2度も開胸手術をするという乱暴なものでしたが、すぐに回復して医者と看護婦を楽しませました。
治癒後リハビリとかに連れて行かれましたが、なんでも出来るので呆れられました。左腕が張り付いたように固定してしまって動かなくなるそうです。毎日病院の屋上でゴルフクラブを振り回している患者にリハビリが要るわけもありません(^▽^笑)。絶対安静の患者がベッドに居ないという有名人(馬鹿者?)になっていましたが、退院する時は英雄扱いで看護婦一同から花束を戴きました。医師からか3週間ほどの自宅療養の診断書を出そうといわれましたがお断りしまして、100日ほどの入院で退院したあくる日から出勤し、すぐにゴルフをやりましたが、さすがに飛ばなくなっておりました(笑)。

タバコは入院中は禁煙でしたが、すぐに吸いだして現在も吸っています。今日も元気でタバコが美味い、とは正に自分自身の健康診断になっております(^▽^笑)。肺がんで大きな手術を2回もして、タバコを未だ吸っているということは信じられない、とよく言われますが、止められないからだとは言いません。美味いと感じ、好きだから吸っています、銘柄はParliamentLightオンリーです。ただし喫煙のマナーは厳しく守っており、密閉された室内では吸いません。家庭内ではベランダ蛍専門です。ハワイなどではホテルの玄関を出たところに設置された喫煙エリアだけになってしまいます。ホノルル空港の喫煙室などはまるで牢屋でした(笑)。
  
この後今度は腰の不調がおきて脊椎管狭窄と診断され、手術してくれる病院を探して遠方の伊勢市の慶応病院を訪ねてオペを受けました。愛知では医者が名大系と名市大系に占拠されており、考え方が違っているせいか手術はなかなかしてくれません。4年近くも薬だけで誤魔化されました。慶応病院では手術してくれる病院を探して名古屋からやってきたと告げたら、手術するかどうかは、医者が決めるものだと言うので、決めてくれないからここまでやってきたんだと、とひと悶着(^^♪。結局、手術をしてくれた結果、すぐに回復して1ヶ月ほどで退院して以来元気です。
悪いところを手術で取ってしまえばすぐに回復して元に戻るというのが私の考え方です。切らずに何とか粘っているうちにより悪化します。医者は必ずしもオペを薦めませんが(失敗が怖いから)自分で決めることだと思っています。
思えばこれらの大手術の経験は自分自身の強さ、元気さ、気力などを再確認しただけで反省材料にはなっておらず益々自信をつける結果になったことは良かったのか悪かったのか? (笑)。
     
一般に男というものが持っている縄張りのなかの力関係において、縄張りを狭めれば力が無くても親分です、が、広い社会へ出れば、通じません。自らが力をつけるか、力の強いものに拠るか、すねて爪弾きされる立場になるか、大きく別けて3つです。ここでいう力とは何かについては現代に合わせて考えれば判ることです。暴力ではありません。社会的地位であったり権力であったり、お金であったり、美男子度であったり、優しさであったり、知性であったり、精力であったりと色々思いつきます。さらに強調したいのが年長であることもその力であるべきです。長年の経験と知識の積み重ねによる頭脳を有効に活用することは大きな力となるはずです。結構世間では老害として隠居を進める考え方や、自ら引退をしてゆく人も多いようですが、個人差が大変大きいようです。また、明らかに老害的な存在になっていることを理解出来ないで、立場の保守に拘る老人も多く、自らを客観的に見れなくなるのがその大きな特徴です。そうはならないように頭脳が健全なうちに引退をするのが賢明かもしれません。

  他人に影響力を及ぼすことは難しいものですが、自分を管理することは出来ることであり、しなくてはならないことです。頭脳の活性化以外に、健康管理は大事なことで、先ず一番は肥満防止です。当然過食・美食の制限、酒量の制限は勿論、健康食品への興味をもって試してみることなど全ては自分自身の為のことです。適度な運動も大切ですが、えてして過ぎる事になりがちですので注意が要ります。ゴルフのし過ぎで腰椎の手術をした、私の経験です(笑)。
人は全て学習・訓練・修練によって強化されるのです。生まれつきなどという要素は小さなものです。
なお、努力をしないでだらけてしまっている人には魅力を感じません。肥満もその一つであり、不健康な人も好きになれません。お洒落心のある人の一つとして、アンダーヘヤの手入れをしている人と、ぼさぼさのままの人とは大きな違いがあります。身奇麗にしたいという努力には大きな評価をしたいと思います。私の同い年の友人にアンダーヘヤを染めているという男がいますが、笑いません。
若さを追い求めているのではなく、老化しないように努力することで若さを保つことが出来るのです。
なお、これらの努力を楽しみで行うことが重要です。苦痛では続きません。

こうして書いてみると自慢の羅列になってしまっていますが、これが私そのものであることに間違いありません。仕事上や私生活、恋愛などでの失敗や挫折の経験が無く、思いのままに人生が展開してきており、財政上の困難も経験しておらず、すべてが良い方向へ動く(と思い込んでいるだけかも)人生を送ってきています。病気入院や大きな手術をしたことが挫折であったり、転機であったりという話は良く聞く話ですが、私の場合はそれらの経験も自信を増長させるだけの役割にしかなっておりません、困ったものです(笑)。
高齢化をマイナスではなく、アドバンテージと思える人生を送りたいものです。
                       マンダム