大和古代史の謎 😒
弥生文化とは何だったのか、天孫降臨とは何なのか、出雲神話の嘘臭さ、徐福と蓬莱島伝説のその後、秦氏ほか渡来人のもたらしたもの、長野に安曇族(北九州の宗像族)の土地があることの謎など、彷徨えるユダヤ人としての景教徒と渡来人との関係、空海(弘法大使:高野山の開祖)の知られざる本質に至るまでの、想像と深読みで作り上げた仮想の裏歴史物語(笑)です。
縄文文化の国だった日本が、急速に稲作を伴った弥生文化の国へと変貌し、大和政権という統一王朝へと発展し、平城京・平安京の建設にまで至り、以来千数百年も続く日本という国になるまでの謎を解いてみます。

上の写真は和歌山の新宮市にある徐福公園ですが、中国が秦の時代に、徐福が善男善女と技能者を合わせて、数千人の規模で不老不死の仙薬をもとめて蓬莱島を目指して航海へ出たとされています。日本では写真のように紀伊半島南部の新宮市にある徐福の墓とされる施設のほか、全国あちらこちらに徐福の一行が上陸した記録があるようです。彼らは当然進んだ大陸の文化や鉄器の技術も、稲作の文化も持ち込み、縄文世界の日本が大きく変わってゆくきっかけとなったと思われます。
1. 徐福の渡来と弥生文明、並びに天孫降臨説。
徐福は秦の始皇帝に仕えた臣の一人とされております。中国史では景教徒と言われるキリスト教徒の一派だとされている民族集団については、それが生まれたのは西暦4世紀だと言われており、古代のユダヤ帝国が滅んで、世界へ散らばった時代は更に数百年古い時代なのですから、キリスト教が生まれる前、3~400年もさかのぼった時代ですから、全く違うものと考えています。
ソロモンのユダヤ帝国が滅んで、世界へ散らばったユダヤ人の集団が東方へ移動した者が秦の立ち上げに協力し、有力な臣として一つの集団を形成したものが、景教徒とされたのでは?と考えます。彼らは技能職集団として万里の長城の建築などに酷使されたこともあり、中国から逃げ出して更に東にあると言う、蓬莱島(理想郷)を目指したいと考えて いたのです。
秦の皇帝を説得して、不老不死の薬を取りに行くと称して、数千人の善男善女と、技術者集団を率いて、蓬莱島(ユダヤでいう理想郷)を目指して日本へと向かったのです。
当時のことですから、難破した船も多くあったでしょう、また、到着地点もあちこちと散らばったと考えられます。 その証拠として徐福伝説は日本各地に存在します。
彼らこそが大陸の文明を日本へもたらした最初の渡来人だったと想定されます。いわゆる米作の伝来、鉄器の伝来、陶磁器の製造などを伴う技術革新による、文明の発展が始まったきっかけではないでしょうか。一気に縄文文化が弥生文化に置き換わった謂れは徐福の来日(渡来)が、元になったと考えられます。九州の北部にあった吉野ケ里遺跡にみられる竪穴住居住まいの縄文文化が弥生文化に置き換わる定住生活の始まりが、奈良の東大寺などに急速に進化していったのが弥生文化です。縄文人が急速に進化することは難しいはずですから。
当然、彼らは強力な武器も帯同しており、上陸地点ではその地の代表勢力となる力も備えていたと考えられます。後の時代になって、彼らの子孫が地方豪族として全国統一の野望に向かう時に、渡来人であり、徐福の一行の一員であったことは不都合だったと想定され、天孫降臨神話が作られたと考えられます。天孫降臨伝説は日本各地にあり、九州にも数か所あり、勿論、中国地方、四国、紀伊半島、房総半島から、東北まで広がっています。徐福伝説と天孫族の誕生、弥生文明の始まりなどが、結びついている気がします。なお、大和が日本を統一国家へと導いてゆく中で、天孫族として彼らは各地に徐福と共に蓬莱島を目指した仲間が地方豪族として存在することも理解しており、調和して統一王朝たる大和王朝を作り上げてゆく過程で、出雲神話を作り上げて国譲り神話を作り上げたうえで、出雲に大きな神社を建てて、対抗して征伐された側の霊魂を静めたと考えています。出雲風土記と出雲神話には何らの共通性が無いと言うのが判っているのです。
邪馬台国というのもかなり怪しい話であり、梅原猛氏は台ではなく、壱の旧字なんだと説いています。九州説だけではなく、畿内説、阿波説、和歌山説、房総説、と沢山あり、これが皆天孫降臨説ともつながっています。
2.百済滅亡、大量の渡来人と秦氏の関係
大和政権も派兵した白村江の戦いで敗れ、百済が滅亡しました。朝鮮半島は最後には新羅が支配する国へと変わっていくのですが、多くの百済人が亡命してきたと考えられます。その代表が秦氏であったと考えられています。彼らは百済人ではありますが、大和を目指して命からがら渡来してきたのは、根っからの朝鮮人じゃなくて、景教徒とされる、彷徨えるユダヤの民が中国から逃げ出して百済にとどまっていたユダヤ人の一族であったと、想定しています。当時、中国は唐の時代になっていましたが、新羅にうまく利用されて、百済・高句麗の征伐に力を貸し、新羅の朝鮮統一に加担したのです。
なお、彼らがヤマトで受け入れられたのは、すでに天孫族がヤマトの支配階級として、彼らを受け入れてくれたからに相違ありません。彼らも又、ヤマトにおいて朝廷に活用されたのです。彼らの頭目であった 秦氏は京都の近くに大きな支配地を与えられて、大和の発展に大きく寄与しました。彼らの技術や職能によって、平城京や平安京が建設されました。また、武士(サムライ)や各種の技能職が定着し、服飾が服部姓、武器制作は矢作姓 (ヤハギ)、陶磁器制作が陶氏(須江氏)などの姓を朝廷から賜り、徐福の持ち込んだ弥生文明を大発展させました。服部姓は後世では忍者集団の親方の姓(服部半蔵)としても有名になりました。
あまりにも大量の渡来人に対し、西国では与える土地が無くなり、長野の松本から糸魚川へかけての広大な盆地を与えたのが、現代の安曇郡として知られた地方です。姫川沿いの土地で、玉・珠(勾玉等)の生産・加工の地としても有名になりました。安曇族とは、北九州の宗像神社に関わる、海の航海術者として、朝鮮と北九州の航海を支配していた一族として有名です。彼らこそ徐福の一団の中で、最初に到着して日本に地歩を築いた最大のグループであったのではないでしょうか。宗像神社の中に天孫降臨の神域が存在しています。彼らこそ天孫族として大和朝廷を構成した中心勢力だったと考えられ、神武天皇の母体だったと推察しています。なお、宗像大社の祭礼の一つ”みあれ祭り”は船を連ね、大挙して渡来してきた秦氏一行(=百済からの避難民)の来日の様子を示すものではないかとの、推察ができます。
なお、唐で学んで、帰国した空海(弘法大使)はユダヤの民族(間違って景教徒と言われている)のことをよく知っていた可能性がある、と言うより彼自身が徐福一行の血を引くユダヤ系の生まれであったと考えることが出来ます。古代ユダヤに関わる紋章(六芒星=ダビデの星=籠目紋=イスラレルの国旗にもある)などが高野山に多く残っており、四国の阿波(徳島)に徐福が持ち込んだ古代ユダヤの聖櫃が隠されていて、巡礼制度を作って結界とさせ、秘密の保護に協力したと推察しています。神社の御神輿の形状はまさにユダヤの10戒を刻んだ石板を運んだ聖櫃(アーク)を移動するときの運搬具であり、20年ごとに社を建て替える風習も伊勢神宮に引き継がれている、とされます。
一般的に景教徒といわれているのはキリスト教の一派ですが、徐福の一行が日本を目指して渡来してきたのはキリスト教が生まれるより数百年も前であり、時代が合致していません。彼らはユダヤ人の末裔たる大集団であり、選抜された人が徐福と一緒に来日し、残った多くが百済で待機中であったと、考えると、話が一気に繋がってきます。徐福らが弥生文化の素となって、秦氏の渡来で完成した、と考えると日ユ同祖論がまっとうな話だと想像できます。縄文人が大部分を占める日本において、彼らの遺伝子は薄まってしまったと考えられますが、天孫族が彼らであったとするなら、支配者層として大和を形成したことから、学問や考え方、精神性などは、日本人と彼らとは同じものがあり、血筋(DNA)も一部には色濃く残っているかもしれません。
3.纏め
言語的にも、最も距離が近い朝鮮や中国の言語とは共通性が全く無くて、ユダヤ語と多く(数千にも及ぶ共通の言葉があると言う。)の共通性があるなど、ヤマトという国名もユダヤ語で、神と民の国という意味だと言われます。また、童謡のカゴメカゴメの不思議な言葉はユダヤ語でなら解釈ができる、更には古くから伝わる民謡などの囃子言葉のエンヤラヤーとかやヤーレンソーランなど、又ドッコイショなどの言葉もユダヤ語由来だとするし、皇室に関わる言葉で、スメラミコトやミカドという呼び方も、ユダヤ語だとする見方が出来るんだと、言われます。籠目紋と言われる竹籠を編んだような模様は、古代ユダヤの六芒星(ダビデの星)と同一であるなど、又、カタカナは空海が発明したことになっていますが、漢字の一部じゃなく、実はユダヤ語から来ている説、更には国歌の”君が代”がユダヤ語として、そのまま解釈できるとするなど、言葉の共通性が高いなど、日ユ同祖論が証明されるような解釈が沢山生まれています。
なお、中国や韓国とは全く気持ちが通じ合わないと言うのも不思議な話です。最も近い隣国であり、古代から往来があった隣国同士なのに、言語の共通性もなく、英米との方が気持ちが通じ合うことの不思議さもあります。礼節を大事に、名誉と恥の精神、仁愛の気持ちをもって、協力して社会を形成する。当然自己責任の精神を持つことを大事にする、などの精神が西欧社会と共有できるのに、中韓の隣国とは共有できないなど、日本人には謎が深い。明治維新と敗戦という大きな節目がありましたが、精神構造を変えるような変化はなかったと考えると、日本人の中に生きている精神 に東アジアの人とは全く別のものがあるような気がします。向学心と言う言葉がありますが、資格を取って良い職に就いて自己の利益にするというのが中韓の考えですが、日本では自己研鑽・精神修行の一環、道を究めたいとする武道、茶道などで使われる”道”(どう)としての修養が重要視されます。これは単なる技術の向上を求めるのではなくて、精神性を中心に個人の技を超えた社会との調和を考えた道(みち=ドウ)のことなのです。
現在の世界情勢では実利だけを追い求める中国や韓国と、基礎からの研究と社会との調和を大事に考える日本との考え方の違いが万事に影響して争いのタネになっていますが、どこからこうした違いが出てきたのかを考えると、上記の徐福や、秦氏の渡来による、ユダヤの志が大きく影響しているのではないかと、ふと思いついてこの記事を書きました。
なお、台湾には客家という民族集団が多数存在しますが、彼らも同じ祖先を持つのではないかと思いつきます。徐福の集団に漏れたグループが漢族の中から脱出して、蓬莱島を目指して、台湾へたどり着いたのではないかと考えると、日本へたどり着いた秦氏一行と同じルーツを持つ”彷徨えるユダヤの民”ではないかと、考えられます。台湾で客家族の出身で総統に選ばれた”蔡英文”女史は、日本からの団体旅行で総統府を観光しに訪れた高校生グループに、歓迎のあいさつをしに執務室を出てこられたと言う。おもてなしの心遣いのできる台湾人であり、まさに日本的な心情の持ち主だったことが理解できます。もしも彼女が中国人(漢族)であったなら、何の得もない日本からの団体旅行の高校生達に向かって、歓迎のあいさつで交流することなどは有り得ないでしょう。
締めくくりとして、徐福一行と秦氏一族の渡来人グループ、更には台湾の客家族が皆同じルーツを持つ、彷徨えるユダヤ人の末裔であり、中国や韓国を見捨てて蓬莱島を目指した同じ民族ではないかと、想像できます。
日ユ同祖論を述べる論者は沢山居ますが、縄文人世界の日本にどの時期に誰がユダヤの血を持って渡来してきたのかを述べている文献には出会っていないので、私の推察が新説かもしれません (笑)。古代ユダヤの考え方が、西洋ではキリスト教となって引き継がれ、東洋では日本人の精神構造に組み込まれているとしたら、面白い結果に繋がりそうですよね。彼らが安全な生き残り方を選ばず、精神性を守るために、妥協出来ないとして捨てて来た地が中国・朝鮮だったのですから、日本人が中国人・韓国人と気持ちが通じ合わなくて反発しあうのも、よく理解できるように思えます。中国側から見ればこうしたユダヤ系の民族は逃げ出して行った人たちなのですが、反対側からみれば、野蛮人(笑)とは一緒に居られないと、捨ててきた国だったのですからね。古代に先達として勉強させてもらった漢や隋・唐の文化は、それを作りあげた人たちと一緒に、大和へ移動してきてしまい、以後モンゴルなどの騎馬民族が支配してきた中国には、儒学も仏教も合わせて残っていない、 勿論、その中国に支配下にあった高麗=朝鮮を含めて、と考えるべきだと思うようになります。残っているのは目に見える形だけの文化だけなんだと。なお、日本に大きく影響した孔子・孟子などの儒学者も漢族ではなく、同じ彷徨えるユダヤの仲間だったんじゃないかと思われてきますね。日本では学問として尊重されてきましたが、偏った形の宗教として大陸では治世のために利用され、発展したようです。
